
「1月は往ぬる・2月は逃げる・3月は去る」といいますが、その感覚が年々強くなっています。
幼いころは意識していなかっただけなのでしょうか。
「欲しいものは?」と神龍に尋ねられると、「精神と時の部屋」と答えるかもしれません。
私は、小学生の息子と娘がいます。毎年、雛人形と兜を飾っています。
飾るといっても、皆が寝静まった後に、夫がごそごそと準備し、翌日起きたら飾られているシステムです。(ありがとう)
2月、雛人形が飾られていました。朝起きて、「あ、飾ってくれたのだ」と思い、ありがとうと伝えます。
3月、先週ふと気が付きました。いつの間にかリビングに飾られているはずの雛人形が、きれいさっぱり片付けられていました。いつ片付けてくれたのか、皆目見当もつきません。茶碗洗いながら、ふと、ないことに気が付いたのです。
通常当たり前に過ごしているリビングの風景に、片付けられていることに、何の違和感もいだきませんでした。
ーーーーー
弊所の大切にしていることの一つ、『誠実(あなたにも、わたしにも、違和感がない状態を大切にします)』があります。
違和感なく過ごせることの裏には、素直さだけではなく、誰かの行動や配慮があり、成り立っていると考えているからです。当たり前の環境や違和感のないコミュニケーションの大切さが、とても貴重だと思っています。
・お手洗いに行って用をたす。トイレットペーパーがあるから助かります。
・ごみを捨てる。ゴミ箱にゴミ袋がセッティングされています。
・ストーブをつける。灯油切れしていないので点火します。
けれども、私は、
・トイレットペーパーが切れて絶望しているときに。
・ゴミ袋のセッティングされていないゴミ箱にゴミを捨て、「ちくしょー!」と思いながら手をまさぐって拾い上げているときに。
・朝スイッチ入れたととたんに、灯油切れを軽快な音楽で知らしめられるときに。
「あぁ、今の当たり前は当たり前ではないのだな」と気が付きます。尊い日々だと思います。
願わくば、日ごろから「違和感のないこと」に対して、感謝できる自分になりたいなと思います。
これは、神龍ではなく、自力で何とかしたいです。
環境にも、人間関係にも、自分自身にも。通常の生活をしようと思うには、通常ではない努力が必要になることがあります。多様になればなるほど、必要とされる力だと思います。
みなさんが違和感なく過ごせている世界は、どのような要素の上に成り立っていますか?
機会を逃してしまい、雛人形を片付けてくれた御礼を、夫にまだ伝えられていません。「今更お礼言うのもな…」と思い、そわそわする毎日を過ごしている内に、1週間以上経ってしまいました。
兜が飾られるまでには、「ありがとう」を伝えたいと思います。